小学校へ入学してからは、幼稚園のころよりますます過酷な状況が私を待っていました。
幼稚園では誰かの後ろに隠れていたり、黙っていても先生が何とかしてくれていたのでどうにか過ごすことができましたが、小学校ではそんなことではすまされません。みんなの前で発言する機会が増え、周りの人たちと会話は当然要求されます。
私は授業が苦痛でなりませんでした。まず、先生が怖いのです。先生に見られていると思うと耐えられないのです。もちろん先生が私に何かしたわけでもありません。でもなぜか先生がとても怖くていつも下を向いて授業を受けていました。
そして授業中、先生にさされて答えると思うと恐怖で逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。不安症の人は常にこんなふうに怯えているので、勉強に身が入らないのです。当然、勉強のパフォーマンスが下がります。防御の方にエネルギーを使ってしまっているので疲れやすという特徴もあります。6歳の私はそのシーンを処刑されるようなイメージで覚えています。
不安症の人の怖いというイメージは人それぞれ違いますが、私の場合は殺されるようなイメージが強かったです。
いつものように下をむいて授業を受けていたある日、先生が私の名前を呼んで答えなさいと言いました。私は緊張して立ち上がりました。
そして次の瞬間、気を失ってしまったのです。
その後の記憶は全くありません。
その日、普通に自分で家に歩いて帰ったのでおそらくほんの一瞬の出来事だったのだと思います。
一学期中、何度か授業中にこのように意識を失いました。
そのフリーズ(凍結)は自分の身を守るための最大の防御だったと思います。
もうどうすることもできない処刑台の自分の状態のピークだったのです。
母が担任の先生に呼びだされ、もっと親子のコミュニケーションやスキンシップをすること、休みの日には家族でどこか遊びに行くよう言われたようでした。
先生は私が誰とも話さないのは、性格の問題と親との問題があると思ったようでした。
この時も、私が「話せない」と思っているのにみんなは「話さない」と思っているのがとても苦しかったです。
ある日、近所の仲良い友達の家に遊びに行ったことがありました。
家に友達がいると思い、玄関ではなく庭の方から、部屋の中をのぞいたとき友達のお母さんが急に顔を出したのです。私は驚いて言葉が出なくなりさっと逃げ出してしまったのです。
後日、母が友達のお母さんからその話を聞いて私に問いただしました。
「どうして何も言わなかったの!挨拶くらいできるでしょう。こそこそして・・」
あまりに母が怒鳴って怖いので真実を話せませんでした。
母はこんな泥棒みたいな娘をもって情けない、と泣きながら私を責めました。
「本当はびっくりして言葉が出なかったの」と言えなかった自分が情けなくてしかたがありませんでした。何度も「こんにちは」と言えたらよかったのにと悲しくなりました。
学校でも相変わらず先生に誤解をされ、自分の主張をできないまま4年生になりました。それまで一度も前に出て話すことも、手を挙げて答えることもしないままでした。
私の不安症は人前でしゃべること、先生や知らない人と話すこと、人前で字を書くことへの恐怖がひどくなっていました。
4年生になって担任がかわり、その先生が初めて私に「よしこは本当はいい子だよ」と言ってくれたことがありました。
私はそれまで自分は悪い子だ、嘘つきで、ずるい子で情けないだめな子だと信じていましたのでその先生に言われた言葉を聞いてとても驚きました。
母が何度も自分の人生の苦労話をするたび、私の中で母を何とかして幸せにしないといけないという気持ちがわきおこりました。でも私は母を悲しませてばかりいるのでつらくなってしまうのです。(今ならそれは母の境界線を越えているのだとわかります・・)9歳の私は、母を幸せにしよう・・と思う反面、こんなに苦しい私を理解してくれない母に憎しみを感じていて、そのジレンマや罪悪感で窒息しそうでした。その時期に先生と出会いました。
先生は大学を出たばかりで初めて担任のクラスを持ち、いつも子供の目線に立って話を聞いてくれるような人でした。
先生は私の話せないという症状を理解してくれた初めての人でした。
授業中、先生は手を上げるときに、分かっている人は手をパーで、分からない人はグーにしてグーの人には当てないというシステムを考えてくれました。
私は人生で初めて手をあげるということにチャレンジしました。
それがとても楽しかったです。
私はその先生のおかげで、だんだんクラスの人と話せるようになってきました。
それでも心の中にある、不安感は消えることはありませんでした。(つづく)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です