依存症 セラピーで出来ること

依存症に取り組む

あなたには、やめたいのにやめられない事って何かありますか?

高齢の女性がパチンコがやめられず、夫に内緒で多額の借金をしてしまうというドキュメンタリー番組を観たことがあります。この女性はギャンブル依存症だったそうです。

依存症にはアルコール、仕事、薬物、スイーツ、ネット、ギャンブル、買い物、ゲーム、スマホなど自分では止めようと思っているのにやめられないものを言います。例えば、アルコール依存の場合、家にアルコールを置かないとか、酒場に寄らないようにするとか対策があります。
しかし、このようにどうにかしてやめられないものを避けようとしても原因になっているものを見つけない限り、依存症を止めることはできません。ギャンブル依存症の女性も何度もこれは良くないと思い止めようと努力をされています。パチンコへ行き負ける度にもう二度とパチンコはしないと誓うのに、また翌日になるとパチンコをしたくて仕方がないのです。頭で分かっていることと、行動は別だったりします。どんなに自分に言い聞かせてもその行動を止めることができず、結果的に意志が弱いと自分を責めたりひどい自己嫌悪に悩んだりします。
私がカウンセリングで使っているEFTというセラピーで依存症を取り扱ったものがあります。本当に効果があるのか私は自分の依存症をこのセラピーを使って取り組んでみました。

私はここ何年もお菓子を食べる習慣がやめられなくて困っていました。何度も止めようとお菓子を買うのをやめたり、食べたくなったら水を飲んだりしていましたが無理でした。お腹が空いていない時も食べたくなったり、味わうこともなくただ口に入れていることもありました。
いつ頃からこの習慣が始まったのか思い出してみると、6〜7年前からお菓子を食べるようになったことが分かりました。
その頃、ちょうど子育てが一段落してほっとした時と重なります。
お菓子を食べたくなるのは、外出先ではこの衝動は起きません。決まって家に帰った夕方、一人でいる時に起こります。家に誰か人がいる時も起きません。
私が一人で家にいる夕方のシーンからセラピーをスタートしました。お菓子を目の前にしている私は、その時何を感じているのでしょう?
セラピーで見えてきたのは、今にも泣き出しそうな自分でした。
夕食を作っても誰も帰ってこない夜。私は母としての自分や主婦としての自分が全てでした。毎日のサイクルが子供や家庭が中心になっていました。ご飯を作り、掃除や洗濯、家事をこなす日々。それが、子供が巣立ちもう私のことを必要としていないことが分かり自分の価値がないように感じたのです。
この空虚感を感じるのはとてもつらすぎました。この空虚感は夕方から夜にかけて心に沸き起こりました。すると知らず知らずのうちにお菓子に手が伸びていたのです。
この虚しさを感じないためにお菓子を食べるということで自分をごまかしていたのです。お菓子を食べている時だけがこの虚しさを忘れられ、価値の無い自分を感じないでいられたからです。セラピーではこの虚しさを感じでいる私を受容しながら感情を解放していきました。

その後、毎日お菓子を食べていた習慣を止めることができました。

依存症は行動を止める方に力を注いでも、なかなか止めることはできません。
その元になっている原因を見つけないと根本的には良くならないと自分の経験で分かりました。
そして、依存症に取り組むにはかなりの決意と一緒に取り組んでくれる人がいないと難しいと思いました。長い間、習慣になっているものほど一人で取り組むのは難しいように思います。

このようにセラピーで自分の問題になっている行動を止めることが可能になり、自分のやりたいことに力を注ぐことができるようになります。私は運動という習慣を取り入れ筋肉がつき体が軽くなってきました。

今は自分の意思でお菓子を食べたり、やめたりすることができます。以前のように無意識にお菓子を食べるということはありません。
そして、前より味わって美味しいものを食べることができています。

今の私~最終章 ⑦ 不安の本当の意味とは

好奇心の赴くままに心理学を学び、いつのまにかロンドンに行くほど心のしくみに魅了されてしまいました。

EFT(Emotional Freedom Technique)つぼをたたきながらトラウマなどを解消するセラピーを習いました。チャールズ皇太子の妻カミラ妃や、アメリカの女優ウーピー・ゴールドバーグも飛行機恐怖症をEFTで克服したと言われています。EFTは潜在意識に滞った不安、悲しみ、恐れ、怒りなどの感情をエネルギーと捉え、そのエネルギーが心の不調を起こすという考えをもとに作られました。身体のツボをタッピングをしながらネガティブな感情を動かし解放していくという世界中で使われている最新のセラピーです。
私はEFTのプラクティショナーを取得し、実際にこのセラピーを試したところクライアントさんの感情が変化していったのです。
それは目の前で奇跡を見ているようでした。クライアントさんはどの人も「不思議だけどネガティブな感情が消えた」と言うのです。
EFTよりパワフルな心理療法MR(Matrix Reimprinting) マトリックス・リインプリンティング
このセラピーは世界の災害被害者や戦争被害者のトラウマケアのツールとして使われ、高い効果を上げています。このMRは記憶を書き換えて潜在意識に焼き付けることが可能になります。これにより、自分のイメージまで変化をさせることができるのです。

これらのセラピーを私も体験することにしました。
カウンセリングとセラピーの組み合わせで、今まで苦しんできたこの不安症を治そうと決意したのです。
対処療法ではなく、この病気の根本を見つけてセラピーをしない限り根治しないと思ったからです。

セラピーを長期的に受けることにしました。
何十年も抱えてきた不安を数回で良くなることは稀です。
頭で良くなりたいと思っているのに、セラピーを受けると無意識に抵抗が起きてうまくいかない時期もありました。
私の潜在意識の中に、簡単に良くなりたくない、という願望が隠れていたことが分かったときにはショックでした。そのくらい「不安感いっぱいの私」がアイデンティティになっていたのです。自我はこれが無くなることが怖いのです。自分が無くなってしまうと感じるのです。
少しずつこの怖さも受け入れていきました。
セラピーで私の本当の気持ちを聞いてあげました。
本当は何て言いたかったの?
何が悲しかったの?
何に怒っていたの?
今まで何も分かってあげなくてごめんね。
心の中に残された小さな自分と対話をしました。何度も何度も。
私の望みは
「私は自由に表現したい」
これだけでした。
ただ、私は私らしくしゃべりたい、私らしく笑いたい、私らしく歌いたい・・・
私の思いを全部受け止めていきました。
この不安の陰にこんな思いがあったことに気が付いたのです。
それに気づくとこの不安は悪者ではなかったことが分かりました。
こんなに何十年も嫌って切り離したいと思っていた不安は、私の大切な思いを守ってきてくれたのです。自由に表現するときに「不安」が起きてこの心を包みこみ私が傷つかないようにしてくれていたのです。
これが分かったときに、何十年も頑張ってくれていた私の「不安」に愛おしさを感じました。なんて優しいエネルギーだったのでしょう。
私の中にいらないものなど最初からなかったのです。
私の心は最初から本当は完璧だったのです。
私のずっと切り離したいと思っていたものも私の大切な一部だったのです。
この瞬間、自分が変容していくのを感じました。
私の中から本来の力が湧き出てきたのです。
体が熱くなりエネルギーが満ちてきました。
潜在意識が変わると、知らず知らずのうちに自分が変わっていきました。

これが私の心の病気のストーリーです。

最後まで読んでくださりありがとうございました。
今の私は相変わらず、人前でドキドキしています。(笑)
でも、その不安に気が付いています。そしてそれを受け入れています。
周りのひとが敵に見えなくなりました。
たくさんの人たちの愛情を素直に感じることができるようになり、人生がとっても楽になりました。
母との関係も変わりました。今まで母に心を閉ざしていましたが、何でも話せるようになりました。私のことを無条件に愛してくれていたことにも気づけました。

もしあなたが今、生きづらさを感じているとしたら
それは決して悪いことではありません。
人は誰でも弱いものをもっています。
でもそれはあなたが精神的に弱いからではないのです。
本当の自分の声を聞いてあげていないだけなのです。

私は自分の体験を通してそれが分かりました。

(終わり)

このカステラは母が焼いてくれたものです

不安症克服⑥ インテグレイテッド心理学との出会い

長い間、暗いトンネルを不安を抱えたまま歩いていました。
自分の進んでいる方向も分からないまま。

不安が心にあると人とのコミュニケーションが難しいです。
私は先生や権威のある人、きつい言い方をする人に恐怖を感じていましたのでそういう人との接触を避けていました。
仕事や学校などではどうしても避けることができないので、次第に苦しくなってしまいます。本当はその仕事を続けたいと思っていても人間関係でうまくいかないために断念することになってしまいます。
また不安ベースで生きていると、被害者意識になりやすいということもあります。
ちょっとした事を相手から言われただけなのにすごく気にしたり、相手が自分をいじめているように感じたりします。
不安が心にある人は、相手の言動に過剰に反応します。
周りが敵に見え攻撃してくるように感じたりもします。

私は人間関係に疲れていたころ、溝口あゆかさんが教えているインテグレイテッド心理学に出会いました。この心理学は「非二元(悟り)の教え」と「心のしくみ」を統合させたものです。
このインテグレイテッド心理学をベースにしたカウンセリングやセラピーは、セラピストの解釈を一切入れず、自然観察のように人の心をあるがままに深いところまで見つめるというものでした。
私はこの心理学に感動し学ぶことにしたのです。
学んでいるうちに何が私を苦しめていたのかが分かるようになってきました。
そしていよいよセラピーを受けることにしたのです。(つづく)

 

スピーチ恐怖症⑤ 母親になって

母親になり子育ての忙しさの中で、自分が不安症だったことを時々忘れていました。
もしかして私は治ったのかな?と思うほどでした。
しかし、それは生活の中で何も刺激されるものがなかっただけで、心の深いところであの恐怖心は静かに封印されたままでした。
このまま人前に立つ機会などなく、ひっそりと生活していきたいと願っていました。たとえ自分のやりたいことが出来なくなっても、それでもいいからこの病気のことは誰にも知られずにいたいと思っていました。

ところが子育ての中で避けては通れないものがひとつありました。
それはPTAでした。毎年役員決めが難航するので立候補がない場合はくじ引きで選ばれます。私は何度か当たり役員になりました。
子供が最終学年の年、PTAの役員が卒業式あとの謝恩会の役員も兼ることが決まっていました。
その役員をくじ引きで決めることになり私はなんと式の司会を引いてしまったのです。ショックで全身が凍り付くように冷たくなりました。よりによって司会?「私に司会は無理です」と必死に訴えました。でももう決まったことだからという事になってしまったのです。司会は二人でやることになりました。
マイクを持って大勢の人の前に立ち話すなんてとても出来ません。マイクには思い出したくないトラウマになるような出来事がありました。
若い頃、友人の結婚式でスピーチを頼まれ、断りきれず引き受けたのです。
きっと緊張してしゃべれないと思っていたので、紙に書いたメモを読み上げようと思っていたのですが当日、司会の人に名前を呼ばれ立ち上がった瞬間、緊張して体がこわばり声が出なくなってしまったのです。
どうしよう・・どうしよう・・声が出ない・・ただただ焦るばかり。マイクを握りしめじっと下を見つめ固まってしまいました。あの小学一年生の授業と同じ感じでした。
何分間そうしていたのか分かりません。私にはその静まり返った時間がとても長く感じました。
司会の人が「ご友人も胸がいっぱいのご様子です。涙で言葉が出ないほどです。ありがとうございました。皆様大きな拍手を・・」と言って終わりました。私は涙も出ませんでした。
これがマイクを持つときのトラウマになってしまったのです。
そんな私が司会をするなんて・・本当にこの時はどうして良いのか分からなくなりました。

絶望の果てに私がとった行動は、話し方教室に通うことでした。
本やインターネットで調べ、スピーチや人前で話すことが上手になるコースを受講することにしたのです。
どきどきしながらその教室に行くと30人くらいの若い人が来ていました。
半分は仕事でプレゼンテーションの時にうまく話したいという人たちで、もう半分が人前に立つと震えたり、顔が赤くなるといった身体の症状が出るような人たちでした。
授業は主に、発音の仕方、呼吸法、リズムの取り方などテクニック的なものが多く、スピーチを人前でして慣れるといったものでした。
この方法は私には本当に合わない練習でした。
おそらく身体症状に出ている人たちにも合わなかったように思います。
なぜなら、いくら人前で話す訓練を積んでも人前が怖いと思っている限り、うまくしゃべれないからです。プレゼンがうまくなりたい人にとってこの訓練は有効ですが、震えたり、私のように呼吸が苦しくなる人にとっては残酷な練習としか思えませんでした。
例えば、胃が痛いという症状が出ているとしたら、何が原因で胃が痛いのか調べます。それをしないで、ただ胃薬を飲んでもまた胃が痛くなるかもしれません。
人前で声が震えるという症状が出たら、発声練習をするのではなく、どうして声が震えるのかその原因をみていく必要があるのです。でもその時の私にはそれが分かりませんでしたし、なんとか症状を抑えたいという対処療法を選んでしまったのです。
毎回、震える人はガタガタと震え続け、顔が真っ赤になる人はそれを繰り返して辛そうでした。私は毎回、自分の番になると思うと予期不安が起こり体が氷のように冷たくなって、指名されると無表情でぼそぼそしゃべり先生に怒られました。
それでも最後まで続けました。
なんとかコースを終え、いよいよ謝恩会を迎えました。
謝恩会当日まで、お酒を飲んでしまおうか・・・と何度もこの思いが頭をよぎりました。でもそれはやめたのです。なんとか自分の力で乗り越えてみたいという気持ちもありましたし、あんなにつらい練習をしてきたのだからという意地もありました。不安症の人がアルコールに走りやすく依存しやすいと聞いたことがありますがその気持ちは良くわかります。
謝恩会はもう一人の司会の人に助けられ、なんとか無事に最後までできました。
マイクを持っても固まることなく話せました。
その時気が付いたのですが、大勢の人が私を見ていない舞台の袖で話すのはさほど緊張しないということでした。
私の怖さは、みんながこちらを見ている、声を聞いているということだったのです。
みんなが他の人を見ていたり、ざわざわした中でしゃべることは平気でした。

この経験は少しだけ私に自信をつけてくれました。あの時逃げずに引き受けてよかったと思いました。
そしてこの不安症は自分に向き合わないと、治らないということも分かりました。

この後、自分と向き合うまでにしばらく時間がかかりました。(つづく)

 

 

 

不安を隠して ④社会生活

大人になるころには不安を抱えた自分、それが本当の自分なんだと思えるようになっていました。
人に自分がビクビクしていることを知られないように、また不安にならないよう行動に気を配りながら生きていました。

社会に出て一番困ったことは、職場で電話に出ることでした。
電話に出て言葉を話そうとすると、初めての音が発音できないのです。
家で何度も電話でしゃべる練習をしました。家ではきちんと発音できるのです。
でも実際電話が鳴って受話器を取って話そうとすると、第一音が出ないのです。
焦ってどうにかしようと必死になるのですが、よけいに言葉が出なくなるのです。これがとてもみじめでした。
周りの人たちに、どもった様子を真似されて笑われるようになりました。
とても恥ずかしかったのですが、笑ってそれをごまかしていました。
それから電話が鳴ると心臓がバクバクするようになったり、手がかすかに震えるようになりました。
その怖さを感じないように平静を装い仕事をしていました。
それでも心の優しい友人に恵まれ平和な日々を送れるようになっていました。
その後、結婚、出産、子育てを経験しました。
主婦生活は私を人前に出るプレッシャーから解放してくれました。
また、子育てをして子供がこんな風に感情を思いっきり出すということを知り驚きました。私はどれだけ自分の感情を抑えてきたのでしょう?
そう思うと心の中に閉じ込めた小さな自分がかわいそうになりました。
泣きたいのに泣かなかった私。怒りたいのにがまんしていた私。
子供時代に思いっきり自分の感情を出せた子供は、どんな感情が自分の中にあっても良いと健全に育っていきます。
医学博士の斎藤学先生の「インナーマザー」(大和書房)の中で、
「腹を立てたときには怒ったり、怖いときには泣いたり、不安なときにはその気持ちを言葉に出して訴えたり、見たり感じたりしたことを話し、受け止めてもらいながら、子供の心は健康に成長していきます。」と書かれています。
この当たり前のようなことが、私のしてこなかった事だとわかりました。
(つづく)

社会不安障害 ③思春期

社会不安障害 Social Anxiety Disorder(SAD)または、社交恐怖 Social phobiaという言葉を聞いたことがありますか?
大勢の人を前にして話したり、会議などでプレゼンテーションをしたり、また偉い人(学校の先生、上司、医者)や良く知らない人と話をする、といった状況に自分がおかれるときに緊張したり不安を感じます。
社会不安障害の人はこの不安を普通の人よりも強く感じ、こういう状況を回避しようとして日常生活に支障をきたしてしまう病気です。
症状としてはある特定の状況や人前で何かをするときに、緊張感が高まり、発汗する、声が出ない、手足が震えるなどがあります。
私が不安や恐怖を感じたのは、人前で電話をかける、人前で食事をする、人前で字を書く、みんなの前で発表する、試験を受けることでした。
そしてそれをすると想像しただけでも、動悸がしたり息が苦しくなりました。

自分の症状を誰にも相談できずに中学生になりました。相変わらず学校と先生に恐怖を感じ、また小学校の時のように同じ症状が現れるのではという不安が常に胸にありました。そのため周囲に不信感を持たれないようにそういった状況を回避していました。
授業中は手を上げない、発言しない、注目をあびない。
中学校、高校を通して6年間これを貫き通しました。
仲の良い友達とは普通にしゃべれるので私が不安や恐怖心を持っていることを誰も知らなかったと思います。
心の中では、内気な性格がこんな症状を起こしていると信じていました。
私はダメ人間というレッテルを貼り、いつもコンプレックスを抱え生きていました。いろいろな事にチャレンジできないみじめさ、人に本当のことを言えない苦しさ、あふれ出る苦しい感情。
私は自分の中にある弱さ、汚さ、醜さ、ずるさを全部切り離したいとずっと思っていました。それを持っている自分が嫌いで苦しかったのです。
なによりも、自分を自由に表現できない悲しみに心が疲れてしまっていました。

今の私も弱くて汚くて醜くてずるい部分を持ち合わせていますが、そんな自分が好きです。
私たちは崇高な愛とずるい悪の両面を持っています。
心は両面どころか多面体でできていて
どの面があったとしても人間は完璧だと私は思っています。
でもその頃の私には到底そうは思えなかったのです。

大人になる私の中で不安は静かに進行していました。(つづく)

 

不安症 ②小学校

小学校へ入学してからは、幼稚園のころよりますます過酷な状況が私を待っていました。
幼稚園では誰かの後ろに隠れていたり、黙っていても先生が何とかしてくれていたのでどうにか過ごすことができましたが、小学校ではそんなことではすまされません。みんなの前で発言する機会が増え、周りの人たちと会話は当然要求されます。
私は授業が苦痛でなりませんでした。まず、先生が怖いのです。先生に見られていると思うと耐えられないのです。もちろん先生が私に何かしたわけでもありません。でもなぜか先生がとても怖くていつも下を向いて授業を受けていました。
そして授業中、先生にさされて答えると思うと恐怖で逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。不安症の人は常にこんなふうに怯えているので、勉強に身が入らないのです。当然、勉強のパフォーマンスが下がります。防御の方にエネルギーを使ってしまっているので疲れやすという特徴もあります。6歳の私はそのシーンを処刑されるようなイメージで覚えています。
不安症の人の怖いというイメージは人それぞれ違いますが、私の場合は殺されるようなイメージが強かったです。
いつものように下をむいて授業を受けていたある日、先生が私の名前を呼んで答えなさいと言いました。私は緊張して立ち上がりました。
そして次の瞬間、気を失ってしまったのです。
その後の記憶は全くありません。
その日、普通に自分で家に歩いて帰ったのでおそらくほんの一瞬の出来事だったのだと思います。
一学期中、何度か授業中にこのように意識を失いました。
そのフリーズ(凍結)は自分の身を守るための最大の防御だったと思います。
もうどうすることもできない処刑台の自分の状態のピークだったのです。
母が担任の先生に呼びだされ、もっと親子のコミュニケーションやスキンシップをすること、休みの日には家族でどこか遊びに行くよう言われたようでした。
先生は私が誰とも話さないのは、性格の問題と親との問題があると思ったようでした。
この時も、私が「話せない」と思っているのにみんなは「話さない」と思っているのがとても苦しかったです。
ある日、近所の仲良い友達の家に遊びに行ったことがありました。
家に友達がいると思い、玄関ではなく庭の方から、部屋の中をのぞいたとき友達のお母さんが急に顔を出したのです。私は驚いて言葉が出なくなりさっと逃げ出してしまったのです。
後日、母が友達のお母さんからその話を聞いて私に問いただしました。
「どうして何も言わなかったの!挨拶くらいできるでしょう。こそこそして・・」
あまりに母が怒鳴って怖いので真実を話せませんでした。
母はこんな泥棒みたいな娘をもって情けない、と泣きながら私を責めました。
「本当はびっくりして言葉が出なかったの」と言えなかった自分が情けなくてしかたがありませんでした。何度も「こんにちは」と言えたらよかったのにと悲しくなりました。
学校でも相変わらず先生に誤解をされ、自分の主張をできないまま4年生になりました。それまで一度も前に出て話すことも、手を挙げて答えることもしないままでした。
私の不安症は人前でしゃべること、先生や知らない人と話すこと、人前で字を書くことへの恐怖がひどくなっていました。
4年生になって担任がかわり、その先生が初めて私に「よしこは本当はいい子だよ」と言ってくれたことがありました。
私はそれまで自分は悪い子だ、嘘つきで、ずるい子で情けないだめな子だと信じていましたのでその先生に言われた言葉を聞いてとても驚きました。
母が何度も自分の人生の苦労話をするたび、私の中で母を何とかして幸せにしないといけないという気持ちがわきおこりました。でも私は母を悲しませてばかりいるのでつらくなってしまうのです。(今ならそれは母の境界線を越えているのだとわかります・・)9歳の私は、母を幸せにしよう・・と思う反面、こんなに苦しい私を理解してくれない母に憎しみを感じていて、そのジレンマや罪悪感で窒息しそうでした。その時期に先生と出会いました。
先生は大学を出たばかりで初めて担任のクラスを持ち、いつも子供の目線に立って話を聞いてくれるような人でした。
先生は私の話せないという症状を理解してくれた初めての人でした。
授業中、先生は手を上げるときに、分かっている人は手をパーで、分からない人はグーにしてグーの人には当てないというシステムを考えてくれました。
私は人生で初めて手をあげるということにチャレンジしました。
それがとても楽しかったです。
私はその先生のおかげで、だんだんクラスの人と話せるようになってきました。
それでも心の中にある、不安感は消えることはありませんでした。(つづく)